ケイパビリティ・アプローチの可能性と課題 一格差問題への新たな視点の検討として 一

 

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皆さん、こんにちは🌤 本日は「ケイパビリティ・アプローチの可能性と課題—格差問題への新たな視点の検討として(馬上、2006)」を読んでみます。

(1.)はじめに

・広義の教育格差はこれまで主に、教育機会や教育資源の公正な分配といった「分配論」の視点から議論されてきた(宮寺他)
・分配論とは異なるケイパビリティ・アプローチをとる、アリストテレス社会民主主義という立場でM C ヌスバウムに着目する
 

1.何の格差を問題とするか

(1)「財(goods)」ではなく「善(good)」の格差

・人生の目的を追求するために必要となる有形無形の様々な「財(goods )」を平等に分配することが必要 自由・機会・富など
=その自己実現機会の不平等を生み出す「財」の格差を問題
 
ヌスバウム:「ロールズのモデルは人の生き方に関する重要な事実、すなわち、人それぞれに資源に対する必要性とその資源を機能に変換する能力は違っているという現実を無視している」=手段としての「財」を平等に分配したとしても、その財によって達成できることの程度は人・環境によって異なる
 
⇒「財」の平等分配を指標としてしまうと、個々人が置かれている社会的文脈が考慮されないため、個々人がそうした資源を活用する際に抱えている障害に気付くことが出来ない
=財→自己実現・目的の間には障害が存在する(=障害の程度は社会的文脈に依存する)
 
・「人々が保有するべき諸資源だけを基礎に据えた正義論は、当該の資源を用いて人々がどんな行為を為すのかという構想に導かれなければ、不十分極まりない」

 

(2)ヌスバウムにおける「善」

・格差を見るべきは「財(goods )」の配分程度ではなく「人間としての善き生(good  human  life)」すなわち「善(good )」の充足程度である
→では「善・善き生」とは?
・善=状態というよりも「活動」と捉える
=「心理的な状態」ではなく「活動」として理解
→「幸福」ではなく「人間としての善き生」
 
・「善き生」=Oという存在にとっての善き生の探求は、これらの特徴がなければ、我々が0 らしい生として進んで見なさないであろうような、0 らしい生、そして0 らしい活動を構成する本質的要素=「人間にとって重要な機能(function)」と捉える
 

2.「ケイパビリティ(capability)」とは

(1)「機能」と「ケイパビリティ」

・ケイパビリティ:く人がそのおかげで何かをすることが可能となるような先行条件=前提
 
・ケイパビリティ・アプローチ:利用可能な資源の多寡や満足度ではなく、「人は実際に何ができるのか、どのような状態になりうるのか(what  people are  actually  able to do and  to  be) ことに焦点を合わせるアプローチ→人間の場合は「実践理性」と「連帯」←これらに関しては今後検討が必要
・機能を公共政策の目的にすると、機能が一つに限定される方向に働く危険性
→社会政策の目的は「機能」ではなく「ケイパビリティ」とする必要がある
 
*「ケイパビリティ」という言葉が持つ危険性
→努力してこれを開花させさえすれば人は何にでもなれるというニュアンス=自己責任論・過度の一般化につながる危険性
⇒「ケイパビリティ」とは個人の努力や自己責任の問題として回収されてはならない
 

(2)人間らしさの「閾値」として

*「ケイパビリティ」比較によって貧困を定義づけるような先行研究は存在するのか? アマーティア・セン
 
・センのケイパビリティ・アプローチ:何をもって「豊か」と判断し、何をもって「貧しい」と判断するのか、多元的な比較を可能とする座標空間を提示する
ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチ:人間が人間になるためには最低どのような「ケイパビリティ」が必要なのか、国家によって最低限保障されるべき基本的政治原理の基礎として「ケイパビリティの閾値」を定めようとする
 

(3)三つのタイプの「ケイパビリティ」

・基本的政治原理の基礎=「機能する機会の要求、関連する社会的政治的義務を生じさせる要求」(→この社会的義務はすべての人に向けられている)
  1. 基礎的(basic)ケイパビリティ」:より高度な「ケイパビリティ」を達成するための基礎=機能の初歩的能力
  2. 内的(internal)ケイパビリティ」:適切な環境において発達・周囲から支援を受けて初めて発達させられる・個々の知性・性格・身体的特徴になる
  3. 結合的(combined )ケイパビリティ」:「内的ケイパビリティ」が、その機能を発揮するための適切な外的条件が存在している状態
→ケイパビリティには、個々人内部的資質に着目するだけでなく、当該個人の外側の状況を含む
社会的・政治的義務を要求する概念→社会環境の改善や教育支援が必要とされる
 

3.「ケイパビリティ」と教育

(1)「機能」の充足
・一人一人様々な価値観に基づいた人生があるが、大人になった時にそうした選択ができる状態であるためには、諸々の機能への「内的ケイパビリティ」がすでに発達した状態でなければならない
・選択や決定に必要なだけの知識や判断力が不十分な子どもには、特定の機能を教育することで、それらの機能の「内的ケイパビリティ」の発達が目指される
 
(2)中心的「ケイパビリティ」の探求による自己教育
・人間にとって価値あるものを認識するのは「欲求」それ自体
・「教育とは、経験的観点からと一般的観点から相互的に、人間の生に関する説明をするという、二方向のプロセス
・「最奥の欲求」を自ら開発し、自らが身をおく社会的文脈の特異性や障害を自覚した上で、人生を決定していくことである(反貧困・反教育格差の授業と共通)
・「人間らしさの閾値」となる「ケイパビリティ」を自ら考えることを通して、現在の「生活の質」を批判的に捉え返していく、普遍と特殊の往還による自己教育やエンパワーメントが教育の課題
・現在の自らの生活を批判的に捉え返していくことで自己教育し、それによって当人をエンパワーメントする
 
さいごに―今後の(自分の)課題
  1. 閾値」を設定することは、どの段階で「閾値」を越えたと判断すれば良いのか
  2. 民主的プロセスに委ねるとは具体的にどうすることなのか?
  3. 「ケイパビリティ」の保障のために必要な子どもの時分に満たすべき特定の機能とは何かについてさらに検討
  4. 自己教育においていわば格差を自覚させることがエンパワーメントとなるための条件は何か?
 
参考文献
・馬上美知(2006)「ケイパビリティ・アプローチの可能性と課題 一格差問題への新たな視点の検討として 一」『教育学研究』第73巻4号、420ー430頁。

【論文メモ③】教育費スポンサーとしての保護者モデル再考

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 本日は「教育費スポンサー」としての保護者の性質に関する論文を考察します。

 

教育費という言葉を聞くと、受験料・入学料・授業料などの費用の「使われ方」に焦点が当てられがちですが、今回は教育費を投資する存在としての保護者に着目します。

 

◇理論的枠組み

 ・「如何なるリターンを期待し、獲得しようとするか」という観点から…

  1. 投資:金銭的利得(市場・社会的価値、訓練費用としての性格)
  2. 消費:精神的効用(世間からの目を意識)
  3. 贈与:精神的効用(人間関係に重点)の三つの理論と

・「誰の利益を追求するか」という観点から…

  1. 保護者志向:利己的意識→顕示的意識につながりうる
  2. 子ども志向:利他的意識→プロデューサー的意識が芽生えることも

 ・以上五つの観点をマトリクス的に配置し、保護者のスポンサーとしての意識の類型化を試みます。

◇調査方法

 ・公立高校在学生保護者・私立大学卒業生保護者の二系統のデータを使用

・教育費投入意識等を問う質問紙調査を行う(ただし、協力校の内一校から保護者学歴・職歴に関する質問を断られている)

 →論点がずれますが、括弧内の出来事は社会調査に対する学校側の意識の問題を示唆しています。詳しくは以下の記事をご覧下さい~

【教育政策の欠陥】全国学力テストの重大な問題点 - 思考を深める教育ブログ (hatenablog.com)

◇調査結果

 ・因子分析(主因子法・プロマックス回転)を行った結果、高校生保護者では「能力プロデューサー」「生前贈与」「必要経費」「見返り期待」が、大学生保護者では「能力プロデューサー」「収益性査定」「生前贈与」の因子が抽出された。

・大学生の方がスポンサー意識が高まっている

・スポンサー意識(自身の役割)に自覚的な保護者とそうでない保護者に分化している

・教育費を投入しないことによるネガティブリターンを回避する「保険」意識

・親年収・学歴とスポンサー意識の強さに関連?

◇まとめ

 ・保護者自身が高校・大学という場にどのような観点から、どのような価値を見出すかで具体的な教育費投入に差が生じるのだろうか?

・父親―母親という性差でスポンサー意識に差が生じるのか、またそれを解明できるか

・「リスク回避戦略」を具体的に問う設問を盛り込み、精査する必要があるかも

 

◇引用・参考文献

末冨芳(2005)「教育費スポンサーとしての保護者モデル再考―高校生・大学生保護者質問紙の分析から」『教育社会学研究』第77集、5-24頁。

【論文メモ②】校則と「緩さ―きつさ」概念の考察

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【社会と学校は規則の性質が異なる】

本日は今話題になっている「校則」に「緩さーきつさ」(概念)に基づき考察してみます。

 

校則は学校内の「きつさ」の象徴と言えるでしょう。制服、頭髪に関する規則から帰宅時、文房具店と図書館以外は立ち寄り禁止など多種多様な校則が存在するようです。

 

これらの(過激な)校則は児童生徒の行動を制限し、縛り付けます(きつさ・息苦しさ)。

 

しかし、学校外では服装・頭髪・サービス利用などは基本的に「自由」として認められています。

 

そして、社会内部の規則は主体的に行動できれば、基本的に「自分らしく」生きていく権利が保証されています。

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「社会」と「学校」は「緩さーきつさ」において分断されている気が…

社会にももちろん「規則」が存在しますが、「自由」という緩さを基盤としている点で「~できるようになる」を重視する学校とは規則自体の性質が異なると思います。

 【二重の「きつさ」で苦しむ児童生徒】

 ここでのキーワードは「居場所」になります。

 

たとえ、学校で「きつさ」を経験しても、学校外に「居場所」があれば、児童生徒は「校則は厳しいけど…」と特に声を上げることなく「そのまま」過ごすことになります。

 

しかしながら、「居場所」が学校外にもない児童生徒がいます。不安定な経済・家庭状況、そして、その他の様々な理由により「心理的安全性」が保障されていない状態に置かれている子どもたちがいます。

 

彼らは学校でも校則(もちろんその他のきつさはある)により「自由な行動が制限される」きつさ・息苦しさを感じるが、学校外ではより「見えづらい」きつさを感じています。

 

前者のきつさは「校則」という名称があり、比較的当事者の子どもたちも認知しやすいですが、後者は当事者自身が「当たり前」と感じやすいきつさと言えます。

 

学校・社会における「二重苦」で苦しめられている子どもたち。周りの同級生は校則にあまりきつさを感じていないため、「自分だけかも…」と思いがちです。

 

自分の置かれている状況・現実と正面から向き合うことが「当事者意識」と言うならば、当事者意識を持ち、現状を変える行動を起こせる環境づくりが重要であると言えます。 

 (教育―福祉の関係性についてはまた別のブログで書きたいと思います。)

 お読みいただきありがとうございました⛰

 

【論文メモ①】教職課程履修者の教職に対する意識と学習への取り組みに関する研究

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今回は「教職課程に属する学生の意識」について考察してみます。

 

ブログのタイトルが今回考察する論文ですが、ここから教職課程履修者の「教職を志した理由」に論点を絞ります。

 

◇研究方法

・首都圏にある計4つの大学の幼稚園~高等学校の教員を志望する学生782人に、質問紙調査を行います。

 

◇結果(他にも興味深い結果がいくつかあります)

・教職を志した理由

→30%を超えたものは①「自分が履修している免許の教科が好きだった」②「理想となる先生に巡りあえた」③「子ども・生徒が好き」(他にもある)でした。

 

◇分析・考察

 これらの「教職を志す理由」の背後には何があるでしょうか。①~③の根底で共通する点は「特に教育現場に焦点が当てられた熱意に近い思い」だと思います。

 

「当たり前じゃないか」とつっこみを入れられそうですが、どうも私には「社会」という視点よりも「子ども」という視点がかなり強く前面に出てきている印象があります。

 

教育格差は就学前から存在し、義務教育終了後、労働社会においても残り続けるという意味で「社会的」問題と言えるでしょう。

 

もちろん現場への「熱い」想いも非常に大切ですが、同時に、子どもたちが飛び込む社会への「冷静な」視点も持ち合わせる必要があるでしょう。

 

加えて③と関連しますが、自分の指示通りに行動できない子どもたちも同じ教室内にいることが多いでしょう。「特別支援教育」に関する幅広い知見も要求されるでしょう。

 

このように「社会を視野に入れた幅広く、客観的(冷静)な知見」が教職には求められます。

 

「知識の保有には意味がなく、その活用に意味がある」と最近はよく言われますが、教職に関しては「知っている、理解していること」それ自体が大きな意味を持つように思えます。

 

皆さまはどのように考えますでしょうか?

 

今回の論文はこちらから

「教職課程履修者の教職に対する意識と学習への取り組みに関する研究」『人間生活文化研究』

教職課程履修者の教職に対する意識と学習への取り組みに関する研究 (jst.go.jp)

【我々の手は血で赤く染まっている】教育格差―階層・地域・学歴

 

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苦しむ子どもたちの犠牲の上に僕はいる

  本書を読んだのは確か去年の六月頃だったと記憶しています。

 

全体で360頁と新書にしてはかなりのボリュームです。

 

しかし、読み始めると、今まで学校教育に抱いた違和感が見事に言語化されており、言葉では形容しがたい気持ちになりました(今でも上手く言葉で言い表せません)。

 

感想を書きだしたら、際限なく書いてしまい、自分の主観も入り込んでしまうため、書評という形で書きます。 

 

                

【凡庸な教育格差社会日本】

教育社会学者が、日本の社会に影を落とす「教育格差」の存在を膨大な客観的データ に基づき紹介します。

 

本書は徹底的に「エビデンス主義」であり、主観的に語られやすい日本の学校教育の現状を客観的かつ分析的に記述しています。

題名の副題として挙げられている「出身階層・地域・学歴」の三つの要因(その他の要因も複合的に合わさることも)により教育達成、そして、その後の職業達成にも格差が生じていることを各教育段階に分けて淡々を論じています(格差再生産)。

そして、我々は個々に固有な学校体験を基に教育を語ろうとします。そのため、客観性に欠け、独りよがりな主張になりやすいです。

たしかに、自分の経験から「義務教育が達成された日本に教育格差などはない」と主張したくなりますが、今も昔も「確かに」教育格差が存在し、そして、就学前からその格差が生じています。

 我々は教育格差に自覚的になる必要があります。

【我々はどんな社会を生きたいか】

教育と社会は密接に関わり合っています。では、どのように教育、そして社会を変えていくのでしょうか。

「教育費の無償化」「奨学金制度の充実」など経済的障壁を取り除く政策が考えられるでしょう。

しかし、経済的障壁を取り除くことで格差・貧困が根本的に解決するならば、とっくに解決しているはずです。

 では、具体的にどうすれば解決するのか。現時点で「これだ!」という方法はないと個人的に思っています。

 

 地道に全国規模でデータの蓄積・分析・評価を行い、現場に徐々に反映していく。

 

だからこそ、格差の現状を把握することなしに独りよがりな議論・教育改革は避けなければなりません。

この問題は決してすぐに解決できる問題ではありません。長期的な視点を持つことが重要であり、そのためには現状把握という段階をおろそかにしてはなりません。

私は、教育をこれから学ぼうとしていたにも関わらず、日本教育の実情を知らなかったことに衝撃を受けました。

そして、どのような社会問題の解決を考察する前には、一度立ち止まって自分の善悪の価値観から離れて、客観的に現状を理解しようとする姿勢が大事であることを痛感しました。

 

僕の手は血で赤く染まっているでしょう。事実を知っているのに沈黙しているのは格差に加担していることと同じです。

 

もしかしたら社会は変えられないのかもしれない。やるだけ無駄なのかもしれない。しかし、少しでも変えるためにやってみる。それが僕の目標だ。

書籍情報

【書籍名】教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書)

【著者名】松岡亮二

【出版社】ちくま新書

【出版日】2019年7月10日

【キーワード】教育格差、学力、SES、学校教育、社会調査

【頁数】360頁

【目次】

第一章 終わらない教育格差

第二章 幼児教育―目に見えにくい格差の始まり

第三章 小学校―不十分な格差縮小機能

第四章 中学校―「選抜」前夜の教育格差

第五章 高校―間接的に「生まれ」で隔離する制度

第六章 凡庸な教育格差社会―国際比較で浮かび上がる日本の特徴

第7章 わたしたちはどのような社会を生きたいのか 

全国学力テストから教育政策の問題点を考える

 

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そもそも「テスト」と「調査」の違いは何でしょうか?

 

 

                

 

         『全国学力テストはなぜ失敗したのか』(岩波書店)

 

そもそも全国学力テストとは何か?

まず、基本的なポイントは以下の三点です。

 

正式名称は「全国学力・学習状況調査」で、2007年度から開始された

現行の全国学力テストには毎年数十億円という予算がかかっている

小学6年中学3年に実施

 

さらに、よく聞くPISA調査と比較してみると以下のような違いが分かります。

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国学力テストとPISA調査の違い

国学力テストの何が問題なのか?

では、全国学力テストはうまくいっているのでしょうか?

 

答えはNoです。このテストには毎年巨額の予算がかけられているにもかかわらず、関係者が当初期待したような目的が果たせていないからです。

 

それはなぜでしょうか?

 

そもそも、学力テストには、「指導のためのテスト」と「政策のためのテスト」の二種類ありますが、現状の全国学力テストはいずれのテストの役割も中途半端なのです。

 

前者の「指導のためのテスト」(個々の生徒の習熟度を測るためのテスト)を行いたいならば、国が実施するのではなく、各自治体の教育委員会が責任を持って行えばよいだけの話です。

 

また、国全体の教育政策を実施するためには、生徒を抽出して客観的な調査データ長期的視点に立って蓄積する必要があります。

 

PISA調査と比較すると全国学力テストは、子どもの社会的属性を確認する設問はありません。

 

「プライバシー」による反対の声もありますが、現状の把握なしに国レベルの教育政策を行っても、今までのように失敗するだけです。

 

改革した気分」に陥るのではなく、「冷静かつ客観的にデータを長期的に集める」ことが教育政策・改革全体に言えます。

したがって、全国学力「テスト」を全国学力「調査」に変わる必要があるのです

 

つまり、この全国学力テストに関する諸問題は、「教育改革」自体の問題にもつながるのです。

 

話が変わりますが、近年「教育格差」、「子どもの貧困」という言葉が広く認識されるようになっています。

 

しかし、その問題の解決には「実態の把握」が大前提として存在していることを忘れてはいけません。

 

未来の世代のためにも「客観的・包括的データの蓄積」と「実態把握」を徹底する必要があると痛感しました。

 

本書は「全国学力テスト」を中心に「望ましい教育改革の在り方」についても広く議論しています。

 

本書を読めば、現状の教育改革の欠陥が見えてくるでしょう。

―書籍情報—

【書籍名】全国学力テストはなぜ失敗したのか――学力調査を科学する

【著者名】川口俊明

【出版社】岩波書店

【出版日】2020年9月4日

【キーワード】全国学力テスト 学力 調査 教育政策 教育改革

【頁数】184頁

【目次】

はじめに

第一章 全国学力テストをめぐる混乱

第二章 全国学力テストの歴史と概要

第三章 PISAから学ぶ学力調査の科学

第四章 全国学力テストのはなぜ失敗したのか

第五章 全国学力調査を再建するために

ブックガイド(社会調査・教育問題・日本社会に関する書籍が紹介されています)